![]() |
「イエスのまなざし」 | 井上 慎治 牧師 |
ルカの福音書 22章31〜34 54〜62節 | ||
31-34 イエスは、ペテロが試されることを予告し、しかしペテロの信仰がなくならないよう祈った と伝えます。 それに対してペテロは「死ぬ覚悟もできている」と豪語しますが、イエスは重ねて「き ょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と、ペテロが失敗することを予告 しています。 54-55 ゲッセマネの園で捕らえられたイエスは、深夜大祭司の家に連行され、裁判が始められました。 忍び込んだペテロは中庭の真ん中で人々に紛れて焚き火を囲み、屋内で行われる裁判の様子を伺ってい ました。 56-60 ペテロは、大祭司の家の召使いの女にじっとみられて、イエスとの関係を指摘され、ペテ ロはとっさに「私はその人を知らない」と返しました。 イエスの裁判のかたわらで、イエスとの関係 性を認めれば自分自身に危険を招く のは明らかですが、それも織り込み済みでペテロは来たはずです。 イエスに忠誠を誓ったペテロの姿はもうどこにもありません。 続けてペテロは二度イエスを否定し、 合計で三度否定します。 イエスとの関係性、友情の一切を否定したのです。 人間の熱心、献身の結果 です。 61-62 三度目の否定のことばを言い終わらないうちに、鶏が泣きます。 その瞬間、イエスが振り 返ってペテロを 見つめました。 イエスと目と目が合ったペテロは、イエスのことばのすべてを思い出 し、外に飛び出して、激しく泣いたのです。 ペテロの涙は、窮地に立たされていた自分を哀れむ自己憐 憫の涙では決してありません。 イエスの正しさに対する自分の不甲斐なさゆえに、ペテロの涙は止まり ませんでした。 しかし、イエペテロのために祈っていたからこそ、ペテロは失敗をうやむやにしたり、正当化したりす ることなく、イエスの正しさと自分の不甲斐なさに気づき、涙することができたのです。 私たちは、ペテロのような失敗を必ず犯す存在です。 しかし、そんな私たちのためにも、イエスは 信仰がなくならないように」と祈ってくださっています。 ペテロがイエスを裏切り、「私は何者でも ない」と気づかされた時にこそ、神の栄光は現われました。同じように、私たちの人間的な熱心、情熱、 努力が挫かれ、「私は何者でもない」と気づかさた時にこそ、神の栄光は現わされます。 そして、そのときイエスは、慈しみの眼差しで見つめておられるのです。 情けなく救いようのない存在を救うために十字架で苦しみ、いのちを捨てた、イエス・キリストの まなざしを忘れてはいけません。 |